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2019.07.28

父と自転車

先日、父が急逝した。もう80代半ばに差し掛かっていたから天寿を全うしたと言っても差し支えないが、昨年の正月まで元気に自分らしく過ごしていたのに、たった1回のインフルエンザがきっかけで体調を崩して以来、徐々に1年半かけて衰えて行き、ついにろうそくの灯が消えるように逝ってしまった。残された母は、「まだ、そこのふすまを開けてよたよた出てきそうだわね」とこぼしていたし、お弔いに来てくれたご近所のかたも、「ついこの間まで、自転車で走り回っていたのにね」と驚いていた。

息子の私がいうのも憚れるが、周囲に気をつかう本当にやさしい父だった。子供の頃から、叱られたことは何度か数えられるぐらいだったし、手を上げられた記憶はない。学生時代に何度か挫折した時には、私には内緒で自家用車から自転車に乗り換えて学費を作って出してくれた。いよいよ衰えてきた最終晩年、身体の自由が利かなくなってからは多少弱気な愚痴をこぼすことはあったが、世話のしてくれる周囲に「ありがとう。ありがとう。」と感謝の意を表すことを忘れなかった。そんな父だったが、今から思えば鬼のような行動に出たことがたった一度だけあった。それは自転車に乗れるようになったばかりの小2の私を県境の峠、倶利伽羅峠までサイクリングに連れ出したことだった。

50年近く前の当時、石川県側から倶利伽羅峠へアプローチする国道8号線は、まだ北陸自動車も完成していなかったから相当な交通量であったと想像がつくが、そのあとの道程が激しすぎてその印象は私には全く記憶がない。ただ、ここで休憩したなという思い出の木陰やお寺さんは当時そのままの趣で今でも残っていて、いまも自転車でトレーニングする際にはふと目が行ってしまう。倶利伽羅トンネルはすでに完成していたから、県境越えをする旧8号線の天田峠へのゆるい登りは自転車にはとても楽しいコースだが、重たいロッドブレーキ付きの鉄の自転車の小2の私はすでに押していたと思う。

天田峠から先の倶利伽羅峠へ道程が当時はダート。しかも勾配もきつくなってついに押すこともできなくなった。それを見かねて、父は荷台に荷物を固定するロープを引っ張り出して私の自転車をけん引してくれた。父の自転車も重たい通勤用のもので、決して楽ではなかっただろう。一緒についてきた幼稚園生の弟は父の自転車の荷台から降りててくてく歩いて登っていた。あとは、ようやくたどり着いた倶利伽羅不動尊の境内で、母が作ってくれた塩の効いたおにぎりがとてもうまかったこと。登ってきたダートの下りで何度か落車して血を流しながら帰ってきたことしか覚えていない。

だから、その後の私の人生における自転車の存在は、どこか辛いキツイイメージが付きまとって、中年になってロードレーサに出会うまでは通学や買い物の足という一般的な存在から抜け出ることができなかった。そして、父とサイクリングに出かけたことは後にも先にもこの1度だけだったと思う。なぜ、自転車に乗れるようになったばかりの子供をあのようなハードなサイクリングに連れ出したのか、50年近い近い時間がありながら結局父から聞き出すことは出来なかった。今もあの試練のようなサイクリングを時々思い起こすこと自体、父が意図したかもしれない目論見が達成されたのかもしれないのだけども。

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